自然のままの姿で残っている川を眺めていると望郷の念が沸いてくる。
南国高知に生まれ育った私は20歳のとき、雪山に魅せられ、憧れが高じて
とうとう北アルプス立山の麓の村、芦峅寺(あしくらじ)に39才になって
家族三人で移り住んでしまった。子供の頃(昭和40年前後)には家のすぐ近くを
川が流れていて、傑作だったのは解体屋から中古車の屋根(鉄板)を譲ってもらって
それを船にしてよく遊んだこと。究極はその船でうなぎを捕るため、夕方竹の筒を沈めておいて、朝、学校に行く前にまたそれを引き上げに行った。漁師の真似事をしていた。
学校にプールがなかったので泳ぎを教わったのも川で、夏休みには友達と毎日のように
自転車に乗って泳ぎに行った。台風の大雨で時々川が氾濫し、私の家も床上まで水がきた。
その泥水の上を「オケラ」がよく泳いでいたのを覚えている。笑われるかもしれないが、ここ十数年、メダカやドジョウ、フナ、ナマズといった魚を一度も見ていない。
「ふるさと」は古里とも故郷とも書くが、人には生まれ育ったふるさとがあり、北陸の
富山は私の住み慣れたふるさとで、山川の一木一草の風景描写は心のふるさとでもある。
ふるさととは「居心地」のよさなのである。
憧れのふるさとは、北米大陸の雄大なカナディアンロッキーやカナダの大自然。
もし、外国に住めば日本という国がふるさとと呼ぶようになるだろう。
人は一生の中でいろんなふるさとを持って生きている。
その数が多ければよいとも限らないが、まったくないのも寂しい。
故郷は遠くにありて思うもの・・・(室生犀星、「小景異情」)
ペンタックス645N 55mm F2.8オート(絞り優先)F22 1/45秒 (−0.3歩正)
フジクロームベルビア100F(RVPF)